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<いーちゃん> ホームページアップ担当

マイブーム 

い~ちゃん

<もーちゃん>  ホームページ原稿・写真担当

も~ちゃん も~ちゃん

子ども3人+α、孫2人(笑)



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<思い出アルバム>  撮っていない思い出もたくさんありますが・・・。  
思い出
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 もーちゃんの出会いに感謝  ―待ち伏せする偶然??―

思い出

むかしむかしから ずっとつながってきた いのちとしての私が

今を生きていること

すでに自分の記憶にないこと  

記憶の断片がつながらないこと、変化している記憶も含め・・。

縁あってのいろいろなふれあいがあって

今日を生きていること・・ 

それぞれに ありがとう

縁あって出会った子どもたちに、21世紀に、

「記憶のひとこま」を、 

おきみやげに(笑)

           

<母の生家 長田の祖父母の家での思い出+α>


もーちゃんの家族、叔母の家族、祖父母と11人で囲む食卓

祖母が作った料理の数々、特に懐かしい毎朝の温泉卵

年末、あちこちに正月飾りをし、お節料理づくりをながめ・・

ぴんと品よく生き生きとするようばーばが結んでトースターで焼いたお鯛が食卓中央に・・。

お鯛さんの目の下はよう動きようておいしいから食べなはれ・・と私達子どもに・・。

年末年始、みんなで見たテレビ、

お正月、お隣さんたちもまじってした羽子板にすもう、

新年の食卓を囲んだ後、みんなで登った高取山

参拝した後、月見茶屋で、飲んだジュースがおいしかった。

喜好じーじとふたり、

神戸駅までバスに乗り、

モロゾフで食べたプリンとコーヒーがおいしかった。

そして、きいつけて帰りや・・と手を振って送ってくれた。

貞子ばーばとふたり、ばーばが任されていた駅の生け花を、

生けるのを見て帰るのが、楽しかった。今思えば、じゃまだったろうけど。

お茶やお花のおけいこの準備を手伝うのが楽しかった。

広げた広告の上に、その日に使う花を1本ずつ分けたり・・。

お茶菓子、食べなはれ、お茶のみなはれと笑顔ですすめてくれたばーば。

でも、抹茶は大好きだったけど、甘いお茶菓子は、ホントはちょっと苦手。

手づくりでおやつを作り始めたのは、甘くないおやつを作りたかったような・・。

厳粛なはずのお茶室でばたばたとあそび、

雑魚寝する様子を、

にこにこと眺めていた寛大なばーば。

じーじが毎日庭木と花に水やりをし、

ばーばが玄関や食卓に生け・・。

食卓のお花は亭主のほうを向けて生けるもんよ・・とばーばは話してたなぁ。

この子はちょっと水の上りが悪いから切ってみよう・・とか。

上のお隣さんと2階のベランダで洗濯物を干しながら話したり、

前のお隣さんと、玄関前の掃き掃除しながらおしゃべりしてたっけ。

ばーばのふるさと、山口県で、

親戚みんな、雑魚寝し、遊び、泳いだのも、楽しかったなぁ・・。

北海道に移住し、阪神大震災が起こったとき、

燃え上がる長田の街の映像を見て呆然とした。

祖母と近所の方は比較的少ない被害でみんな無事でほっとした。

2008年、祖父を偲んで久しぶりに訪ねた長田の街は、

思い出

近代化もあったけど商店街などあちこちが震災の影響でがらりと変わっており、

改めて被害の大きさを知ることに・・。

大阪で看護師として働いていたある日、

ばーばは私を呼び、巻物になった福多の家系図を開き、

縁組して、福多の名を継いで、この家も継いでくれないかと言った。

当時の私は、「縁組」ということを重く感じて、その申し出を遠回しに断った。

ばーばは、「へんなお願いして悪かったな。あはは。」と笑い、

以降一切その話をしなかった。

震災後に転居し、住む人が変わって、

祖父母が考えて建てた今は貴重な日本建築と

精魂込めて育てた庭木などが様変わりし、

少々心が痛んでもいる・・。

せめて、庶民的なお茶をも愛した、

祖母の心をいくらかでも受け継ぎたいと思うこのごろ・・。

           

<父の育った野上の家、父の生家の和歌の浦>

父の育った野上の家は、

商店を営み、川の真上に立つ家で、

思い出

今もそのままに残って節子おばちゃんが商店を営んでいる。

そこに親戚みんなが集まって、

川の流れる音を聞きながら雑魚寝し、川遊びし・・。、

生石山に登り、商店のおやつやジュースをいただき・・。

トイレが家の外にあり、とても寒かったけれど、

団らんは温かで、手作りの食事もおいしかったなぁ。

父の生家、和歌の浦では、

昭子のおばさんがよくしてくれ、

ひとり暮らしを始めた後も、

毎年みかんなどをいただき近況も知らせてくれていた。

最近は認知症が進み、子どもの頃の私しか、記憶には残っていないようだけど。

     

<妙喜庵・サントリー山崎蒸留所などがある、大山崎町>

家の真ん前が小学校の裏門だったので、

グランドに友達がいれば遊びに行き、

忘れ物をしてもすぐに家まで取りに帰っていた(笑)

アタックナンバーワンごっことポートボールに熱中し・・。

5・6年の瀬野クラスは思い出に残る楽しいクラス。

結婚後、同窓会が開かれたけれど、農繁期で断念。

その後、瀬野先生は若くして天国に旅立ってしまった・・。

時々、瀬野先生と先生と結婚した「(通称)カマキリ」と友達との盆踊りの写真を

懐かしく見て・・。

父は会社によくつれて行ってくれ、いっしょにテニスをさせてもらった。

小さいころは、ラケットを片手で持てなくて、

フォアもバックも両手で打っていた。

外で遊んだりスポーツをするのが好きで、家の中にいるのは雨の日ぐらい。

父と一緒に、または友達と、

裏山の天王山(天下分け目の山崎の合戦で有名な)頂上まで走って登ったのも楽しかった。

帰りに小倉神社でおみくじ引いて帰ったっけ。

また、上の階の飛鷹ファミリーによくしてもらい、

あきちゃんと外で遊んだり、ふみちゃんに手芸を教えてもらったり・・。

私が結婚式に来たドレスはふみちゃんが自分の結婚式用に手縫いしたドレス。

そして毎年、近況を知らせていただき・・。

家の裏には、猫の額のような家庭菜園があり、

夕食のおすましに入れる木の芽などをとりに行くのが楽しかった。

パン!とたたいて入れるとよい香り。

母がパンをこたつで発酵させていていい匂いだった。

グラタンのチーズがオーブンの中でプーッとふくれる様子を見るのも好きだったなぁ。

青少年科学館に行ったときもらったヒヨコを大切に育てていたら、

コケコッコーと鳴くまでの鶏になってしまったけど、

肩に乗ってかわいかった(笑)

中学校になると、住宅街から、トンネルもある小さな道を通って、

思い出

友達とワイワイ、結構遠い学校に通った。

ワイワイ仲間の淳ちゃん&潤ちゃん、えっちゃん、ゆきちゃん・・

元気にしてるのかなぁ。

トトロのようなトンネル(?)は、今もあるのかなぁ・・。

テニスはじめ球技全般好きだったけどハードルと砲丸投げも好きだった。

百合子先生に出会い、先生と国語が大好きになった。

いーちゃんと訪ねた時も中学時代と変わらず出迎えてくれ、

バタバタと落ち着きないんだけど人間味にあふれ、いつだって、全力投球。

教師をやめて別な道を歩んでいるけど、いまもかわらず大好き。

北海道では「ヒグマにあったらどうするか」を教えられるけど、

京都では「マムシにあったらどうするか」「マムシに噛まれた時の救急処置」

を教えられ、実際、マムシに何度か会い、小さいやつなのに、三角の顔が怖かった。

       

<長岡京遷都の街 長岡京市>

高校進学の頃、

南向きが3階、北向きが2階、裏が竹やぶという鉄筋コンクリート建ての家が分譲され引っ越した。

ほんのちょっと芽が出てきた裏のタケノコは商品価値がないらしく、取り放題。

猫の額よりももう少し広い庭畑付き。

1軒あいた隣りにろうあの夫婦と健聴の子どもがいて、

手話を教えていただき、

ろうあの方の子育てのいろいろな苦労を知ったかな。

当時、京都府は「高校3原則」などをうたった蜷川知事時代が長年続いており

その影響で(?)、高校は、学力差や細かな規則もなく、校門は年中あきっぱなし、

標準服が一応あったけれど身なりもそううるさくなく、

今思えば自由な気風の学校だったような。

それでも、授業を受動的に受ける毎日に疑問を感じ、反抗期でもあり、

恋愛から人生論まで商業科の友人ともワイワイとたむろし夜遅く帰ったこともあり・・。

このころの友人とは今でも手紙をやり取りし・・。

結婚してからはほとんど会う機会がなくなったけれど、

たまに会うと当時にワープできて懐かしい。

長く会っていない、たむろ仲間に、生きているうちに会いたいかな(笑)

あいかわらず、テニスなど球技に打ち込み、

ハンドボールでの右シュートが大好きだった。

私はテニス部だったけど、ハンドボール部は府下で優勝したりしていて、

授業の熱の入れようもけっこうすごかったような。

新年の年越しをすると、家族と、または友人と、

長岡天満宮に初詣した。

2010年、父を偲んで、家族と大山崎から長岡京市を歩いたが、

変わっていないのは、

小学校と長岡天満宮と家ぐらいで、

どこがどこだかわからないほどに変わっていて驚いた・・。

<福岡市箱崎>

親元離れて、はじめての下宿生活は、九大体育会テニス部の練習コートのある近く。

体育会テニス部では、上下関係が厳しく、尋常でない練習とトレーニングに打ち込み、全国を合宿・遠征した。

学部では、つじ、たま、みー、つーぼう、りこ、といつもいっしょ。

部活に出て、専門科目・病棟実習以外はほとんど授業に出ていない私の代わりに、

出席帳に名前を代筆してくれてノートを見せてくれ・・。

部活のオフの時には、下宿で一緒に料理を作ったり、5人で遊びにいったりもした。

一方で学校帰りに偶然寄ってきた子猫を「ごんべ」と名付けてともに暮らす。

大家さんからもらった紙には動物を飼ってはいけないと書いてあったけど。

上の人は、紙にやってはいけないと書いてあった麻雀三昧。

大家さんは結構うろうろしていたから、今思うに寛大なおばあちゃんだったと思う。

思い出

学校に行くときには、ごんべもお出かけ。

自転車で戻る音を聞いて、

首輪についた鈴を鳴らしながらとんでくるごんべが、かわいかった。

猫なのに、お風呂が大好き。

卓上電気の真下、本の上で寝てしまうのは、ちょっと邪魔。

帰省の時には、かごに入れて、いっしょに帰るので、旅行好き。

また、九州は魚がとっても安くておいしくて、ごんべのごはんには困らなかった。

帰省した時には、まとまったお金を手に入れるべく、

時給が高かった千里救命救急センターでのバイトを続けたが、

暴力団抗争事件や、子どもの溺水事故ややけど、自殺未遂などに、

胸詰まる思いもした・・。

また、ドラマのイメージと違い、救急現場は、

驚くほどに落ち着いて冷静な現場だった。

火事場ではかえって落ち着かなければベストは尽くせない・・ということを知った。

   

<5色バーの会ほか 国循時代>

思い出    

私が最初に勤めた最先端の循環器専門病院、

厚生省国立循環器病センター(大阪府吹田市)の同期99人の新入職員のうち、

乳児心臓外科に配属になった看護科新卒生5人組、

最初の研修期間は講義を聞いているだけで初給料が出て楽だったけど、

病棟勤務が始まった途端、のんきな学生気分から一転、緊張が連続する勤務に放り込まれ、

おまけに呼吸器の扱いや心電図モニター監視など、右も左もわからない毎日で、

その中で喜び苦しみ悲しみを分かち合った5人組。

メンバーに色を付け(もーちゃんはモカ)、

寮で一緒に食事を作り、

勤務表の5人で行ける日を探しては、

5色バーの会と名付けて飲み歩き、合コンし、旅行し・・。

何年か経ち、病棟が変わっても集まり続け・・。

思い出

新たなメンバーも加わり何色バーだかわからなくなり(笑)

結婚のあいさつのために帰省した際、

大阪丸ビルの最上階30階のカクテルバーで、

いーちゃん&友人も入って開催したのが最後で、

この時の結婚祝いの寄せ書きメッセージのコースターは大事にとってある。

最近のみんなの合言葉は「久しぶりに会いたいね~」。

実現するかな?

       













思い出







最後の1年は脳血管内科に配置転換され、乳児心臓外科よりはゆったりとした時を過ごし、

じゅんちゃん、なみちゃん、5色バーのメンバーとあちこちを旅行した。

特に、マツの影響で、登山ブーム。

夜中から登ってご来光を拝んで下山した伊吹山はじめ、

オフシーズンの北アルプス・中央アルプスなどに何度も登った。

全職員(医師、看護師、事務職員など)から、国循テニスチームを結成していて、

九大体育会よりは、はるかに、楽しむテニスをしていたけれど、

厚生省の関西大会では、毎年、団体優勝、個人入賞し続け、合宿も楽しかったな。

   

<ロッキーズ&札幌>

もーちゃんが勤めた国立循環器病センターは、

就職試験で落ちる人も結構いる人気のある病院で・・

そのうち、北海道浜中かいわいの旅行を通じて

北海道の僻地に医療過疎地が数多くあることを知り・・。

医療過疎地での勤務を決意し、そのために助産師と保健師の資格も取ろうと思い立ち・・。

ただ、病棟勤務&遊びながらの受験勉強は難しく

唯一まだ覚えがあった英語が入試科目にあった北大を偶然選び、運よく合格し・・。

社会人を経験してからの

1学年20人の家族的な学生生活&病棟産泊実習&道内旅行

&生活費稼ぎを兼ねた実習アルバイトはなかなか楽しく・・。

美樹先生、貞子先生、そして偶然浜中町出身のきいおばちゃん

(北海道立衛生学院保健師科に続けて進学したとき、ストーカーにあったもーちゃんは、
引っ越し先が決まるまでの間1か月ほどきいおばちゃんのお宅で、
きいおばちゃん、れいこおばちゃん、まーくんたちのお世話になり
・・その時から、きいおばちゃんと呼んで・・)という、
とても楽しい3人の先生にも出会い・・。


その年、偶然、国際助産婦大会が初めて日本(神戸)で開催され、記念切手が作られ・・。

思い切って、20人全員で、貞子ばーばの茶室に泊まって国際大会に参加し・・。

ばーばは、近所中から布団を借りて回り、みんなに食事を振舞ってくれ・・。

もちろんもーちゃんが大好きな温泉卵つき。

そんなこともあった濃厚な学生生活後、それぞれの人生を歩んでいるけれど、

北大助産学特別専攻科6期生だったことから、

北大6期~ず(略してロッキーズ)を形成して今も仲良し。

そして、父が入院した時に偶然お世話になったのが、

きいおばちゃんが所長を務める恵泉塾の在宅ホスピス。

学費と生活費を稼ぐため、個人産院と札幌マタニティホスピタルでバイトもした。

札幌マタニティホスピタルは、

優雅な出産・おいしい料理などが提供され、人気の病院だった。

このような病院は札幌には他にもかなりある。

個人産院では、出産の何倍もの中絶を介助し、

エコー上、鉗子をさけて逃げ回る胎児が悲しかった。

一方で、お産実習は、夏休みに、マタニティアイでさせていただいた。

春日井さんは、毎日毎晩、お産にかける情熱を語ってくれた。

思い出

今は情熱をかけてつくりあげぱたぱたと働いておられたマタニティアイを引き渡し、

でもやっぱりぱたぱたと「山ん婆(さんば)ぐらし」をたのしんでおられる様子。

実習のあとずっと、娘のように電話をくれ、いつでも娘のように大歓迎してくれ、

最近では、山ん婆(さんば)同志、盛り上がれて楽しい。

そろそろ、お返ししなければ(笑)

衛生学院保健師科在学中も、1か月長期僻地実習

(稚内を先約、同期5人で、もーちゃん愛車で、宗谷管内を渡り歩き、

もっちゃんトリオは今も健全?)など、

なかなか濃密な時を過ごし、なみ、なな、たーやんたちとも遊び歩いて楽しかった。



また、作業療法士さんたちと、MG研(メディカルグループワーク研究会)

というグループを作って定期的に集まり、通信を発行し・・。

ふーさんは、結婚式で、場を盛り上げるゲーム係をしてくれたり・・と今も交流。

             

<結婚>

ともに昭和38年に生を授け、

京都寄りの大阪でそだったいーちゃんと、

大阪寄りの大山崎町で育ったもーちゃん。

いーちゃんは、強い意志で、2年の歳月をかけ、帯広畜産大学の門をくぐり、

開拓同志会という同好会を選び、あちこちで酪農実習した結果、

強い意志で、就農目指して酪農ヘルパーをし、浜中町に移り住んできた。

もーちゃんは、北海道を旅行していて偶然、浜中町の酪農家の人と遊ぶようになり、

思い出

札幌での学生生活ののち、僻地医療に燃えて(??)浜中町に移り住んだ。

人口1万人以下の町で、仕事以外に住民参加のイベントも多く・・

ふなこぎ競争や綱引きの練習、

神社祭りの1か月ほど前から、夜な夜な地域で山車を作り&踊りを練習し・・。

盆踊り前には仮装の準備し(北海道の盆踊りは基本的に仮装盆踊り)、

牧場祭や港祭りや氷祭りなど、とにかく何かにつけお祭りが多い・・。

というわけで、結構忙しい私生活とともに

偶然することになったかなえちゃんとの共同生活も思い出深い。

農家で搾乳し、漁師さんの船に乗せていただき・・。

はまなか21世紀プラン会議のメンバーに誘われ、

修学旅行生を受け入れたり、通信を発行したり・・。

犬の「さくら」と共同生活もはじめ・・。



                   

そして、いーちゃん、もーちゃんは浜中町内で偶然出会い、

1993年に結婚し、いーちゃんの強い意志のもと酪農家に・・。

あれれ?(笑)

           

そして、たくさんの人が我が家で過ごし・・。

思い出

特に就農したあと子どもを授かるまでの間はいつも誰かが泊まっていて

・・思い出アルバム参照)

最初に牛を預かってくれ、搾乳や牧草収穫を教えてくれた房雄さん・夏江さん、純司さん、

いーちゃんが入院してくれた時に助けてくれた友達・近所の方々・・。

週末うちですごすのが趣味(?)の、みかちゃん、あさみちゃん、ひろみちゃんなどなど・・。

あれこれ地域の皆さんに、よくしていただき・・。

一方で、数々の地域行事(先生の引っ越し・歓迎会・送別会、環境整備&花見、
合同運動会、仮装盆踊り、敬老会、演芸会&神社祭り、忘年会、新年会、
冠婚葬祭のお手伝い、各種研修会など)
・保育所行事(入所式、遠足、運動会、敬老会、文化祭、クリスマス会、卒園式など)
・学校行事(入学式、環境整備、授業参観、運動会、部活動、キャンプ、陸上大会、
マラソン大会、文化祭、親子交流会、スケート少年団、雪中運動会、忘年会、新年会、
卒業式など)、に追われ・・。

あっという間に、一生が終わってしまいそう(笑)

いーちゃんはコーヒー、もーちゃんはミルク、

ぐるぐるな毎日を経て、

マーブルにとけていったら、

どんな夫婦になれるだろう・・?

<縁あって偶然授けられた我が家の子どもたちへ>

単調になりがちな家事も、子どもといっしょにすれば、

いいかげんだけど、とっても楽しく、

とっておきの笑顔つき。

怒ってるときも、なんだかかわいい。

絵本もテレビも子どもといっしょだと倍楽しい。

お風呂も子ども心にかえって毎日が水遊び。

家庭菜園の雑草取りも話しながらするとけっこう早い?

朝から、晩まで、

「おかーさん、あのね~」を連発して話しかけてくれ、

布団に入って本を読んで添い寝をしているはずの自分の方が先に寝てしまい、

あ~ゆっくり考え事がしたい・・なんて。

最近では日中みんないなくなってしまい、考え事できるようになったけど、

逆にちょっと静かでさびしいかな。

それぞれみんな、ひとりずつ違う成長をする子どもたちのそのときそのとき。

日に日に大きくたくましくなり、

今後も楽しみ。

でも、巣立っていく日には、いろいろ思い出して、眠れなくなってしまう・・。

いつでも帰っておいでね。

さびしい、いーちゃん&もーちゃんが、待っているよ。

<1冊の絵本作りが・・>

夫婦して絵本好き。

思い出

でももっぱら買う専門。

表紙がしっかりと厚い絵本は上製本。

そんな絵本でも自分で作る事ができるよ・・と、

町の図書館職員の方から親切丁寧な指導を受け、

自分ながら驚くような立派な絵本が完成しました。

「売っているような立派な絵本が自分でも作れるんだ~」と感動した瞬間。

偶然見つけて感銘を受けた作者不詳の英詩があり、

訳して絵本にして子どもにプレゼントしたいと思ったことがきっかけ。

くーちゃんが天然絵具で優しいあたたかい挿絵を描いてくれて、

できあがった絵本がきっかけで、

美枝子さん、くーちゃんと新たな絵本の創作をすることになり、

寝る時間を惜しんで、隅々まで、できる限り・・を尽くして作った絵本

西田敏行

「ふたりのおかあさんからあなたへのおくりもの」

→注文はこちらまでss7.inet-osaka.or.jp/~fureai/index.html


絵本は偶然テレビで西田敏行さんによって朗読され、

後日、偶然西田敏行さんと出会い、絵本についてほんの少し語り合いました。

とっても人のいいおじさんでした。

絵本は重版され、今日も誰かのもとに届けられているようです。

「この世の1冊の絵本」のままにしておきたかったような気もするし、

「読んで元気になってくれる人がいてくれたらそれはそれでうれしいのかも」しれないし、

この結果は、偶然のいたずら・・。


<抹茶がおいしい>

小さいころから、貞子ばーばのお茶室で、当たり前のように過ごし、

国宝妙喜庵(利休待庵)のそばで育ったけれど、

北海道に来てから抹茶はすっかり縁遠くなり、

しかも敷居の高い世界・・。

縁遠くなってはじめてしみじみと懐かしく・・。

90歳を超えた貞子ばーばに頼んで、お茶を点ててもらい、

我流で抹茶を飲んでいた2010年秋、

偶然、温かなお茶の先生との出会いがあり・・。

家族で抹茶を楽しむことがマイブーム・・。

いーちゃんは、いつか、昔なつかしい、

妙喜庵(利休待庵)が発祥の、

老松を使った割蓋茶器をいつかもーちゃんにプレゼントしてくれるらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

たまたまもーちゃんが東京にいて地下鉄に乗っていた時に、

地下鉄サリン事件が発生し、

携帯電話も普及していなかったから、

いーちゃんはとっても心配していたらしい。

阪神大震災の時、火の海になっている長田区で暮らす祖父母の無事を祈った。

9・11の時、ニューヨークで暮らす妹の無事を祈った。

東日本大震災が発生した時、友人・知人の無事を祈った・・。

じぶんではどうしようもないことがたくさんある。

でも、できる限りを尽くして、あとは天に任せ、

これからも残された1日1日を大切に生きたい・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほかにもいろいろ書ききれない 待ち伏せする偶然??に

縁あって遭遇し、今、毎日を生きている自分。

ここには書いていない、書けない、それぞれの出会いにも、「ありがとう」を伝えて、

病気になっても苦しみからは十分解放されて

最後に息を吸えることに感謝しつつ、

父や祖父や友人・知人の待つ、天国に行けたらいいな~。

哀悼

思い出

2009年9月、北海道旅行に出た父が、腰痛で動けなくなり救急車で搬送され、簡易検査の結果たどり着いた入院先が札幌の「北楡病院」。そこで知らされた病名が「多発性骨髄腫」。私が医師に呼ばれ受けた説明は「進行の早い特殊なタイプ。今晩急変する可能性も高い。残された時間をどうすごさせてあげたいか」という厳しい説明。父に簡単に状況を説明し「あと長くても1年は生きられない」と告げると、「短かったら?」とすかさず聞きかえし、「今晩・・ということもあるらしい」と迷いながら答えた私に、父は笑顔で「わかった」と。50歳でJAL事故に同僚が巻き込まれ、自分も飛行機に常に乗る立場だった頃から、突然死も意識し常に身辺整理を繰り返してきたようで、所持品は驚くほどに整理されており、「この記録類を保管し目を通し、お父さんの人となりを感じてほしい」と。また、「家族写真を撮りたい」と。昔は常に一緒だった家族も、実家は香川、弟家族は熊本、弟はデトロイト、妹は香港・・と、近年は全員がそろうことがほとんどなく・・。それでも、維持療法が奏功し、クリスマスイブの朝に家族全員と会話し手をとって静かに旅立つまでには、何度もそれぞれの家族に負担をかけては集合しては記念写真をとり・・。又、父は、記録に残していないことは今話すと・・。

 私にとっての父は、いつも優しくニコニコし、大変なことがあれば一生懸命助けてくれる存在で、小さい頃から、一緒にテニスしマージャンし・・。テレビが具合悪くなると直してくれる様子をじっと見たり・・。父の肩書きなどはほとんど意識したことがなく、入院してから、いろいろ話すうちに、大変だったのに、ちっとも気づかなかったな~と。

2009年6月に親族で集まった時、小さな人形を出し「覚えているか?」と。中学生の時、父の日に贈ったという人形を、私はまったく覚えていなかった。こんな古ぼけた人形大事にとっていたんだ・・ふーん・・と。入院後、「あの人形は形見にもっといて・・。もらった日から、ずっとかばんにつけて、ここは勝負の日だ・・というときには、その人形を握りしめて今まで頑張った・・。怒り爆発しそうな時も、おこったらあかん・・と握りしめていた・・」と。

 父は純粋に「ものづくり」が好きなエンジニアで、三菱電機に入社後は、商品開発&品質向上のためのあくなき努力をし、その努力の過程を毎日克明に記録し・・。ところが年月と共に、管理的な仕事が増え、北伊丹製作所副所長になり、三菱電機の半導体すべての責任をもつ立場にあった頃、最先端半導体メモリの西条工場で火災が起こり、国産ロケットはトラブルを繰り返し宇宙開発事業団に出張出張・・。責任の重圧に少々疲れていた父は、勤続20年を区切りに、徳島文理大学香川校新設と共に、選択定年して教授となり、心気一転、学生たちとの毎日をフレッシュな気持ちで楽しみ、できないと言われ大学をやめそうになっている学生に、いかに工学の楽しさを伝えるか・・に勢力を注ぎ込んでいたらしい。しかし10年が経過し工学部長になった頃から、またもや管理的な仕事が増え・・。そして、去年勤続20年の区切りを迎えて父が考えたのは、「ここで名誉教授を続けることもよいが、育った頃の田舎生活に戻って、生活のためのものづくりをし、少し人生に迷って疲れた若者たちと共に毎日を送りたい・・」ということだったらしい。そして父が選んだのが、北海道余市町にある「恵泉塾」だった。残念なことに、そこで葬儀を行うこととなり、余生を送ることはできなかったが・・。日々の雑事の合間に悲しみは周期的に訪れ、もっといろいろできることがあったのでは・・と、そっと父が握りしめていたという忘れていた古ぼけた人形を手におさめ・・。近年、何人かの友人も逝き、いのちは無限ではないと、改めて考えさせられ、1日1日大切に送りたいなとすごすこの頃・・。

自然が好きだった父の遺影に花を添えたいな・と、5月から10月まで、いろいろな野の花を生けてみた。花もちのよい「オオバナノエンレイソウ」は好きな花ですが、家族で人気があったのは「シモツケ科」「カタバミ科」「スミレ科」の花など。「花は野にあるように」「小さい花は根つきでな」と貞子ばーばが教えてくれたが、家に生けると花の細かい姿や変化もよくわかり、そのうち、子どもが学校帰りや、外に行ったついでに「これじいちゃんとこにどう?」と持ってきてくれて一緒に花の名前を調べたり・・。北海道には本州では見かけない野の花が多く、かわいい・・と実感した1年でもありました。

かーきちは畑でイチゴなど初物が取れると、「じいちゃんイチゴ取れたよ~」、じいちゃんが好きだった紅茶を「一緒に飲も~」、「じいちゃんおはよう」「じいちゃんいってきます~」とじいちゃんはお空の上だろうけど遺影にいつも話しかけ・・。去年まで、全力で遊んでくれたじいちゃんが、かーきちの心に、宿っているのだなと・・。

30年ぶりに訪れた父が育った田舎町、野上の家と周辺は全く変わらず住む人だけが年をとり、昔と変わらず温かく迎えてくれました・・。

           



























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北海道新聞 連載コラムより



























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